宇宙征服計画!
今日は、つれづれに宇宙征服計画について書こうと思う。
一人の人間が宇宙を征服できるかどうか?
自分は、可能だと思う。
やり方を説明する。
まず、知性をもったAIを作る。(この段階は現行の技術でそこそこいってると思う。何を知性と呼ぶか?にもよるが)
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そのAIの体を、コンクリートでも木でも鉄でも、溶鉱炉もしくは、木とかの有機物なら、酸や何かで分解して吸収できるような装置(つまり胃袋)をもった、自分で、その工場(胃袋)を動かし、物資を工場まで運搬できるようなものにする。
そこで分解、加工した物資を素材に、体の部分をデザイン 、生成できるような知性をもたせる。もちろん、知性、頭脳も自分で成長、学習するように作る。
これで、体、頭、胃袋ができた。
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仕上げに、そのAIに自分を吸収して再構成してもらう。
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はーい。それが元のその人といえるかどうかは置いといて、あとは、地球の物質すべてを飲み込んで巨大化していけば、地球は征服できました。
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地球の次は宇宙でーす!
ただ、人間のぼくでさえこんなこと思いつくから、宇宙にもっと進んだ生物がいたら、もうとっくにやってるでしょうね( ´艸`)
今日はつれづれに宇宙征服レシピを書いてみました~。
全然やろうと思えばできる範囲のことだと思いますよ!
神様っていると思いますか?
神様っていると思いますか?
自分は、神様がいるかどうかはわかりませんが、
火があって、水があって、土があって、空気があって、お日様があって、月があって、山があって川があって、鉄があって、酸素があって、二酸化炭素があって、
たんぱく質があって、電気があって、イオンがあって、塩基があって、リボ核酸があって、、、
って考えていくと、この世界は、生命の誕生にとってできすぎてると思うんです。
地球を、奇跡の星って言いますが、他の星や他の宇宙だって、構成する元素は同じじゃないですか?
なら、宇宙のどこかで、条件が整ったら、同じような、元素や物質でできた星だってあるわけでしょ?
よく、プールいっぱいの時計の部品から、時計が組み上がるような確率、といいますが、確かに、無限の宇宙なら、その確率もあるんでしょうよ。
でも、そもそも、その時計の部品をだれが用意しました?
鉄の塊から、そんなにたくさんの歯車が自然発生するわけないし、プラスチックの塊から、そんな時計の針が出来上がることもないです。
じゃあ、それを用意したのは?
人間って、緻密で精巧にできてますよね?人間に限らず生物は緻密で精巧にできてます。少なくとも、戦車、や、銃、より、複雑で凄い作りですよね?
氷の中から、氷の戦車が出てきたとして、誰がそれを、「やぁやぁ、偶然出来上がった氷の戦車だ。すごい確率だけど、奇跡の戦車だなぁ!」って言いますか?
だから、神様とは言わないけど、なにか、人知の及ばない意思が働いてるように感じてなりません。笑
以上。つれづれに独白です。笑
謎駄文。幼稚な理想論。
現実問題そうはいかない幼稚な理想論を持っています。
みんなのために自分ができることをやればいい。
それに、みんなが、お金なり、食べ物なり、対価を払ってくれればいい。
人も、集団も、会社も、県も、国も、
みな、みんなのために自分ができることをやればいい。
日本も。世界のために日本ができることをやればいい。
それで、世界が回ったら、たぶん、いい世界になる、、
でも、自分さえよければいいっていうのも、二律背反ですが、また、真実なんでしょうね。
だから、バランスの問題かな?笑
幼稚な理想論のお話でした。笑
謎駄文。愛と真逆の概念について。
愛というものがあるのは皆さんご存じだと思う。
ぼくは最近思った。
愛と真逆な概念があるんだな。と。
愛は、人に善意を向ける。が
ソレ、は、人に悪意を向ける。
ぼくも、ソレを持つことがある。
怒ったときとかがそうだ。お前をぶんなぐってやる。破滅させてやる。不幸があれば、ざまぁみろと思う。
ソレ(ぼくは便宜上、ソレ、を「オド」と呼ぶことにした。)のなせる業だ。
人によっては、愛をもって他者に接する人と、オドをもって他者に接する人がいる。
できれば、愛の人と付き合いたいものだと思う。笑
謎駄文。善悪について。
自分には独自の善悪感がある。
それをここに書いていこうと思う。
仮定で、
善=助け合うもの
悪=潰しあうもの(足を引っ張りあう。邪魔しあう、など)
とすると、
助け合うものの集団と、潰しあうものの集団、どちらが、より成長するかというと、明らかに助け合うもの、だと思われる。
ここで、善だから、頭がいい、悪い。悪だから、頭がいい、悪い。などということは考えない。
現実では、純粋に善人だけの集団や、悪人だけの集団はあり得ない。
また、個人をとっても、純粋に善だけの人や悪だけの人はあり得ない。
つまり、善人であっても、悪人の手口は学べるし、悪い発想はできる。
悪人であっても、善人のやり口は学べるし、善い発想もできる。
そこで、善人であろうと、悪いやり方でお互いの足を引っ張りあう訓練もできるし、悪人であろうと、お互いに協力し合うこともできる。
と、考えた時、善人の集団(助け合うことが基本の集団)と、悪人の集団(足を引っ張りあうことが基本の集団)があった場合、おおむね、善人の集団のほうが、成長が早いと思われる。
つまり、勝つ集団=善。善とは勝つものだと思う。(勝ったことがすなわち善の証明にはならないが)
これが、ぼくの独自の善悪感です。